年中無休で恋心

たのしいおたくライフを送っています。

本名を知らない女の子の結婚報告で泣いてもいいと思います

大学生の頃、大教室で授業を受けながら、教卓にいる先生とわたしの関係について考えたことがある。

週にひとコマ授業を履修している学生と教員であるという社会的役割から離れて、わたしの行動を記述するとどうだろう。

 

「毎週同じ時間に同じ場所に電車を乗り継いで会いに行き、90分間、彼の話を聞く。」

 

ときどき目線が返ってくることがあるけど、そこに好意や信頼を示す相槌の意味はなく、あんまりジロジロ見るなよという威嚇の意味もない。単に視野の置き場にわたしがいるだけで、わたしは聴き込むフリをしながら眺めていていい。彼はわたしの名前でさえ多分知らないから、この関係が何かの理由でこじれることは今のところない。

いっぽう、わたしはこの3ヶ月でじつに1080分、親友より両親より長い時間彼に視線を向け、話を聞いている。内容は彼が崇高に愛している分野、人生をかけて得たスキル、自信を持って後世に伝えたいと考えている知識。全世界に紹介したい大好きな本や映画。最近好きなお菓子。お酒は酔いすぎ防止のために家では缶で飲むようにしていること。

ああ、このひとのこと好きだなあ、と思う瞬間がある。友達でも知人でもない、当たり前に家族でもない。高校の担任ほど素性を明かしあわないけれど、わたしに明かしてくれている部分は実は、彼にとって自分の意思で得ようとしている自分であり、大切なものなんじゃないだろうか。

大学で授業を受けていただけ。でも確かにあの先生はわたしの中にいた人で、わたしの抱いた感情もあった。友達や恋人みたいにどんなふうな感情の持ち方をするのがふつうなのかという知識の蓄積がなくて表現しにくいだけで、こういうカテゴライズできない関係性は、たくさんある。いちいち向き合ったら生きていくのは結構大変だから、あえてしてないだけなこともある。

 

今年、女性アイドルである推しが結婚することを発表してくれた。

わたしは彼女の結婚後の本名を知るすべがないし、結婚式の有無も結婚記念日もわからないし、彼女が社会とどんなつながりを持っているのかも具体的には知らない。ポイントカードを発行するとき職業欄に何て書くんだろう?

でも、わたしは今日彼女がすごく可愛いスカートを買ったことを知っている。今日聞いていた曲を知っている。入っているサブスクを知っている。どんな文字を書いて、どんな文章を書くか知っている。憧れのアイドルと共演する前には髪を切りに行くような可愛い気持ちを持っていて、夕ご飯に何を食べたかを唐突にクイズにしてファンに出題する愛らしいサービス精神を知っている。歌に悩みながら、それをファンに伝える方法にも気遣いながら、アイドルをしている。そういう彼女がどんな思いで人前に立ち歌を歌っているかは、ちゃんと想像することができる。

それは彼女が人生をかけて彼女自身を手作りしていくために、意思を持って作ってきた部分であり、意思を持って見せてくれている一部であると思う。結婚式でスピーチする親友とは違う形でちゃんと、崇高な彼女の一部を知っていることだとは言えないだろうか、あの先生との90分のように。人にはいろんな出会いかたがあって、感情がある。彼女の結婚を知り、めちゃくちゃ泣いた。

 

唐突だがわたしは去年久しぶりに独り身になり、今後どうやって生きていこうかなあと、めちゃくちゃ現実的な計画と共に自分を立て直している最中だった。推しの結婚発表で、感情を入れ込まないようにしていた根本的ライフプラン問題と向き合わざるを得なくなったことはなかなかにハードであって、気持ちが揺らいでしまった。いつも天使として見ている推しに自分の人生を重ねてしまうなんてことを、わたしもしてしまうんだ、と仰天したし、ショックだった。同時に、推しの結婚は本当にびっくりするほど嬉しかった。

彼女がくれる優しさは、明日から自分も優しくなりたいと思えるような種類の細やかな優しさだった。彼女の歌声で歌われれば、どんなに疲れた朝でも前向きな歌詞を素直に聴けた。推しは明るいが、誰も置いていかない明るさを持っている。ライブでは、どんなに大きい会場でもレスをもらった!と思わせるスーパーアイドル能力がある。

そういう愛し方を見せてくれた彼女の愛情が、個別具体的な人に向けられる時間ができて、そしてそれが彼女にも向けられると信じられる人生を選んでくれたことは、とても素晴らしいことだと思った。なんてきれいな生活だろう。想像するだけでえんえん泣けた。

 

アイドルとファンは、絶対的な距離があるとして描かれることが多い。ファンと恋愛関係になることは「つながり」と呼ばれる。変な用語である。人と人なんだからつながりがあって当然なのに、関係を「つながり」と呼ぶことで、つながってはいけないことが強調される。

ある関係性に生じる感情に名前を授かって救われる感情をもつ人もいると思う。例えばわかりやすく、これは恋だと認めて理解できたことで、これまでうまく流れていかなかったいろんな思考がスッキリして疑問が解けることもあると思う。

同時に、名前であてはめようとすると抜け落ちてしまう感情がある。あてはまらない自分は何なんだろうと迷ってしまったり、その感情を持ってしまったことがいけないのではないかと、責めてしまい、孤立しているように思ってしまう。わたしたちにはもっと細やかで複雑な愛の持ち方だってあるのにね。

推したちが与えてくれるコンテンツによって、いろんな感情を知って、感受性をむきだしでいられる瞬間をこんなに増やしている。そういう世界は美しいと思うし、よく知らない人の尊い一瞬に共感する関係性は、全然珍しいことじゃないし、つながっていないわけないと思う。

 

 

アイドルの結婚は、文脈を知らない人にも届くくらい強いインパクトのある文字になってニュースになった。彼女が所属するのはそういう強いコントラストのあるトピックを持って個性を作るとは対極にあるような平和なグループだったので、わたしは正直、誰にも言わずにこっそり結婚してもいいんじゃないかと思っていた。彼女が好きだから、彼女の結婚を知る全ての人に祝福してもらい、その上で幸せを得てほしいと思ってしまう。こんなに人を幸せにしてくれた彼女がそういう目に合えない世の中なんて嘘だ、と暴力的な思考も生まれてしまう。公にはせず、あたたかい声だけを受けて地に足のついた幸せを受け取っていたほうがよかったんじゃないかと考えたこともある。

 

でも実際に結婚を報告してくれたことで、それが「ずっとアイドルを続ける」を具体的に行動で示す、今考えられる唯一の行動なのかもしれないと気付いた。大きなライフイベントを迎えて、1人の人生を負ってた頃から変化する生活になっても、わたしたちの前にいたいという宣言。信じるほかない。そういう彼女の報告に、わたしは個人の感情と彼女の意思をまぜこぜにせずにしたいと思った。わたしはわたしのままで彼女のことが好きで、そして彼女を見ながらちゃんと自分も生きて幸せでいたい。

 

 

彼女が大切にしているグループが今日、また誕生日を迎えた。わたしは本当にうれしいし、特別な日に買うのはケーキかお酒か、お花にしようか、ウキウキして過ごした。家族でも親友でもない人のおかげで、泣いたり笑ったりできる。そういう日々は参照できる感情や名前がないから迷うこともあるけれど、今日も推しはとてもかわいいところを増やしてくれていて最高だし、それを発見したわたしも最高で、この関係に名前はなくても絶対に確かなものだと思う。今日も推しが好きです。おめでとう。