年中無休で恋心

たのしいおたくライフを送っています。

映画『人生フルーツ』を観た半年後、叔父さん夫婦の畑でとれた野菜とドライフラワーが届いている

自粛期間が始まる少し前、下高井戸シネマで映画『人生フルーツ』を観た。

 

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愛知県春日井市の雑木林に囲まれた一軒の平屋でなるべく自給自足をしながら暮らす、建築家・津幡修一さんと英子さん夫婦のドキュメンタリー作品。

土を肥し、花を育て、野菜を育て、家を宝物のように大切に暮らす。その暮らしを劇中でご夫婦は「時を貯める」と表現していた。枯れた葉をゴミ袋に貯め、土にまき、良い土を次世代につなげていくのだと語るシーンにが映し出されたとき、「時を貯める」とはこういうことなのかもしれないと思いをめぐらせた。

こんなふうにまとめると地方で自給自足生活を始めた老夫婦のロハスな物語のように思えるかもしれないが、そうでないのがこの映画の凄みだと思う。

ただ淡々と、必要であるからそうしているかのように繰り返される生活だが、そこには調整と工夫を繰り返さなければ成り立たない、大変なものごとがありすぎる。

例えば庭にある小鳥の水飲み場には、大きな瀬戸物の器が使われている。プラスチックであれば軽さもあるが、水はどうやって代えていたのだろう?庭には数えきれない種類の、注意書きをしなければ上を踏んでしまいそうなほどのたくさんの作物がある。フック棒を使わなきゃ開けられない天井近くの大きな窓のある家に住まい、曲がった腰で器用に換気をする。壮大な日々のやりくり。

雑木林で庭仕事をする英子さん。その木の名前をペンキで書いた木札を作る修一さん。「スダチ ドレッシング用です」その字は丸文字のようなデザイン文字のようないとおしいものだが、明らかに日々文字を書いている人のそれであることが分かる。可愛い木札と表現するだけでは素通りできない、奥にある人生の手数の多さを感じた。

彼らがこうして春日井市の平家で良い土を蓄えながらこのような生活していることには、ある理由がある。ご夫婦の第一印象はとても穏やかだが、映画を通して観ていくうち、譲れないものがある人が持つ特有の強さと知性を感じる何かを、所作から感じるようになってくる。樹木希林のナレーションと庭の果実や花の名前などの文字テロップによる解説で、その2人による秩序で構成された世界に足を踏み入れることを許されるような感覚になった。

 

以前一度観た時には、「こんな晩年を過ごせたらなあ」と、どこか遠い美しい世界を観た、という感覚でしか受け止められなかった。でも、大好きな作品だった。

 

 

突然自分の話に変わるが、以前友人のお宅にお邪魔してお米を炊いてとお願いされ、米を研いでそのまま炊飯スイッチを押そうとして驚かれたことがある。

共働きだったうちでは、私が学校から帰ってからお米を研ぎ、夕飯に間に合うよう、いつも早炊きで炊いていた。「お米はしばらく浸すと美味しくなる」と知ったのはもういい大人になっていたその時で、恥ずかしく何も言えなくなってしまった。

無邪気に「うち共働きで、そういうこと知らなかった」と言える軽やかな思考が、なぜか咄嗟に持てなかった。家庭らしさ、いわゆる「家庭的」な生活を持てていないことをコンプレックスに思ってしまっていたことに、そのときに気が付いた。

 

 

どこか人ごとと思いながら『人生フルーツ』について考えることを終えてしまっていたのはここだったんだろうなと思う。丁寧な暮らしと無縁なわたしには、分かるはずがないと思っていたし、分かったようになってしまってもいけないとさえ思っていたのかもしれない。

 

2度目に観たのは緊急事態宣言前。じんわりとずっと生活について考えていたし、否応なしに「家庭を大事に生きるとは」と考え直すような時期だった。一緒の回を観た友人たちと近くのサイゼリアに行って、サイゼリア1000円ガチャでメニューを決めようぜ、なんて話をしつつ、お昼を食べながら人生フルーツの話をできたことで、頑固になっていた映画に対する感想の持ち方が少しほどけていったこともありがたかった。以前よりももっと何か、美しい夫婦の暮らしの中にある奥行きについて、軽やかに想像する豊かさを覚えた。

 

 

そんなある日、家に荷物が届いた。定期的に親戚の叔父さんが自分の畑でとれた野菜を箱につめて送ってくれている。

届いてすぐ、野菜を保管するために荷ほどきをした。一番上に入っていたのは、小ぶりなピーマンとジャンボししとうの山。その下に2本の見事な大きさのズッキーニ。曲がったきゅうり。丸いかぼちゃ。冬瓜がひとつ。いつもは考え事をしながら淡々と包みを開けていたこの動作の中で、急に包まれた新聞紙のことが目についた。

ピーマンとししとうは、それぞれ新聞紙でくるまれていた。そしてその下には新聞紙で仕切りが付けられ、包まれたズッキーニときゅうりが並んで置いてあった。かぼちゃと冬瓜は包まれておらず、仕切りがされた状態できちんとおさまっていた。この箱詰めの中に、たしかな秩序があったことに気が付いた。重いものが下にいることはもちろん、必要な分の湿気が保たれるように工夫され、野菜が成る時に近いような形で置かれているんだと思う。

初めて、この野菜がここに来るまでの過程を思った。わたしには想像するには途方もない世界だと思いこんでストップしていた想像力がはたらいた。

津幡さんの家に、映画を通して入り込んだからだ、とすぐに分かった。津幡さんがお知り合いの方に送る作物を箱詰めしているシーン、あの日々の暮らし全体がよぎった。繰り返し丁寧に日々を過ごしている人のしごとには、秩序があるんだ。そこに意味がある。気が付いてからはもう、梱包されてきた箱が特別なもののように思えた。

 

その後初めて、野菜にまじって1束だけ、ラベンダーのドライフラワーが届いたことがあった。それはしっかりきれいに花が残った状態でドライになっていて、ほのかに香った。

麻紐を買ってきてベッドサイドに吊るし、いつもの野菜のお礼ついでにそのことを連絡した。すると叔父さんから、「もしかしたらハーブが好きなの?」と連絡をもらった。

野菜のお礼のやりとりはしていたけど、何か具体的な質問をされたことはずいぶん久しぶりのような気がした。緊張しつつ、興味はあるけど恥ずかしながら全然詳しくないので、教えてもらえたらうれしいと返信した。すると翌週、いつもの倍の大きさはゆうにある、抱えきれない大きさの段ボールが届いた。大きなキャベツかレタスでも入ってるのかなと開けると、そこには細かく梱包されたドライフラワーと、透明な箱に入った二種類のハーブが入っていた。

 

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叔父さんがハーブやお花まで育てていて、しかもドライにしているなんて、もう何年も野菜を送ってもらっているのに全く知らなかった。遠慮して会話していなかったからだ。

 

名前を知らないお花たち。統一感のある色彩の中にも差し色になりそうな鮮やかな色のお花もあり、組み合わせれば素敵に飾れるように計算されているように見えた。

ひとつずつ手にとってお花の名前を調べ、フラワーベースになるようなものはないだろうと探した。いつか使えるかなととっておいた、小さなガラス瓶がいくつか見つかった。そして挿してみると、なぜかぴったりの茎の長さだった。しばらく眺めた。家にしっかりとした高さのある花瓶がなくても飾れるように、考えてくれたのかもしれない。あり得る、と思った。

改めて、また送られてきた箱を見てみた。触ってみて気が付いたがお花には細い茎もあり、ぶつかったら折れてしまいそうだ。ドライフラワーの茎がちっとも折れることなく送られてきているのに、梱包材はほとんど新聞紙しかない。無駄な包みがなく、必要なぶんが必要な数だけそこにあるように思えた。

 

家にほとんどいないような生活をしていたわたしは生け方さえ迷い、何度も花を抜き差ししながらバランスを見、何度も写真を撮り、その写真の中でもお花を見た。なんとか納得して恐る恐るその写真をLINEすると、長い返信があった。そこには「綺麗に作ってくれて有り難う。花たちも大喜びしていると思います。来月になったら違う花を送りますので、待っていてください」と返信をもらった。

丁寧な日々を送っているだろう叔父さんの作る作物たちに対して、変な感想を言ってしまったらどうしようと一歩踏み込んで話せなかった。でも憧れていたんだと思う。まさかこんなことで、こんなに喜んでもらえるなんて思わなかったし、花が主語になる言葉なんてしばらく見たことがなかった。なんて美しい感性だろう。なんだかたまらなくて、部屋に籠もって泣いた。

 

後から教えてもらったことだが、こんなに野菜をたくさん送ったら迷惑かな、どのくらい自炊してるかなと、おっかなおっかな送っていたとのこと。これはどう食べたら美味しいのか聞いたり、こんなふうに食べたよと頻繁に報告するようになると、その後夏の間本当に笑ってしまうほど大量に、週1で定期便が届くようになった。

ハーブの使い方、美味しい食べ方、お花の飾り方のバリエーション。自由でいいんだよ、と言ってくれながら、丁寧に教えてくれた。お花は帽子にピンで付けたらどう、なんて提案ももらった。数年に1度も会わないのに、わたしが帽子が好きなことを知っていた。今年は叔父さんに送ってもらった手作りのリーフベースとドライフラワーを使って、クリスマスリースを作る。

少しずつ勉強して自分でもお花を用意することにした。好きなお花屋さんもできた。ご飯を早炊きしかしたことのなかったわたしも、叔父さんとZoomして、送ってもらった花豆を煮たものの感想を話せるようになった。自分にはできないと思っていた自分の家を大切に暮らすということが、こんなふうに実現するとは思わなかった。

 

映画をとおして具体的な生活が変わっていく、すごい体験をした。わたしには理解できるはずもないと諦めていた世界が、あの『人生フルーツ』の津幡さんご夫婦の暮らしを丁寧に観たことで、ひとつひとつの作物を誰かと分け合うまでに、どんな工夫と修繕があるのか、それに必要なユーモアや知性、奥行きを感じることができた。今年触れることができて、本当に良かったと思っている。

定期的に上映される映画であるといいなあ。小鳥の水飲み場と作物の広がる庭、機織機の音、リビングの机の位置を決める話し合い。ご夫婦の間にながれる秩序はわたしには到底分からないだろうけど、あの圧倒的な画を何度も浴びて感じたい。