年中無休で恋心

たのしいおたくライフを送っています。

『燃ゆる女の肖像』を観て考えていた名前の話

わたしが好きになる人たちは、インターネットで燃えやすい。

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変化していかないと誰かを守れなくなってしまっている古い価値観に「おかしい」と言うこと、想像力のない言葉に自分の言葉で反論することは、長期的に見れば優しさであるかもしれない。それでも、うまく散りばめられた真実っぽく見える何かを匿名の他者が勝手につなぎ合わせて個人を攻撃することを意図された線は不思議とすぐに出来上がる。燃えた個人は善か悪か、その信憑性がありそうなほうに風が吹く。

一度燃えた名前は消えない。印象的な見出しと共に記事として残り、予測検索機能に不穏な言葉と共に残り、ネット記事を読み上げるYouTube動画のコメント欄に残り、上位に置かれている誰かの言葉が自分の感想であるかのように刷り込まれる。時代が変わり価値観はアップデートされても、そこで踏まれた人の名前は消えない。そして燃やした人物の名前は誰も知らない。

 

ネットでの活動に視点が向きやすくなった昨年からよく、果てもなく名前のことを考えていた。

 

いっぽうで映画『燃ゆる女の肖像』は歴史に女性の名前の残らない18世紀に、望まない匿名性をもって生きる自律した女性たちの話だ。

 

高名な画家である父の名前でしか作品を出品できないマリアンヌ。命を断った姉の代わりに結婚させられるエロイーズ。結婚に必要な、お見合い写真代わりの肖像画を描くよう依頼されるマリアンヌ。描かれることを拒否し続けてきたエロイーズ。残酷な目的のもとに出会う二人は、惹かれ合うこととなる。

 

物語は画家のマリアンヌがエロイーズの邸宅に行くために船に乗るところから始まった。そこで荒波にさらわれた商売道具のキャンバスを、彼女は自らドレスのまま海に飛び込み救い出す。邸宅では、招かれ人であるはずの彼女がてきぱき服を脱ぐ。服を乾かすためにともされた暖炉の火で煙草を吸う。

ここまでのシーンだけで、わたしは彼女のことがとびきり好きになってしまった。自分の仕事を人に頼らず自分の手で守り、自分を癒す術を知っている女性。暖炉に照らされた彼女が裸で体育座りで喫煙するシルエットは絵画的で美しく、素晴らしいと思った。彼女の仕草も眼差しも全て、現代においても凛とした美しい女性と聞いて想起する像と地続きだ。

そして姉の代わりに自分が見知らぬ地へ嫁ぐことに疑問を持ち拒否し続けるエロイーズも、彼女と同じく聡明で自律した女性であることが、少しずつ見えてくる。

 

この映画で最も美しい事実は、二人が惹かれ合いながらもぶつかり合い、肖像画を完成させることであると思う。

社会システムの歪な形ゆえにアイデンティティ確立の可能性を奪われていた二人の女性が、自分を表現することを求めて、感性を刺激しあい、「肖像画」というひとつの作品に向かって全力の共同作業を行うことを自ら選択する。

 

肖像画の完成はイコール、エロイーズの結婚に結びつく。悲しい未来を選ぶ行為であることが分かっていたとしても、女性たちに自分の表現を残そうとする希求が確かに存在していたということを信じたくなる説得力のある映画だった。表現によって解放されることは、時代を問わない。

登場人物も場面も少なく、彼女たちの二人の視線を覗き見るようなカメラワーク。ほとんど音楽もなく、暖炉で火が燃える音だけが響く時間も長い。繊細な表情や音を映し続ける大胆な構成で、自分が自分であることを求めることの自由を静かに獲得していく彼女たちの変化を集中して、同一視して見せられることになる。こんな手があったのかと大号泣したが、涙が落ちる音さえも映画館で目立ってしまいそうなほど静かな映画だった。あの人をいつまでも見つめていたい、同時にあの人に狂いそうなほど見つめられていたいという欲望を通じて、「見る」という行為を通じて、自己を発見していく。

 

そうして彼女たちは思考し、表現を求め続ける。友人となったメイドの女性の粗悪な堕胎の環境を目に焼き付け、絵画として残そうとする。神話に描かれる愛に対して思うことを議論しあう。メイド女性は、生花をモデルに刺繍を始める。とても素朴な愛情のもつ創造性に気づくたび泣いた。ラストシーンまで、本当に美しかった。

 

ああ、そして、と思う。どんなにお金持ちの貴婦人であっても、才能のある画家であっても、女性たちの名前にたどり着くことは困難だという。そして現代、わたしは自分の表現でなくネットで燃えたことで名前を残している、美しい人たちのことで静かに心を痛めている。他者を見つめて自己を発見する構図は、きっと変わっていないのに。