年中無休で恋心

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藤原季節と塩塚モエカ『迎夏 夏と朗読』を観た

俳優・藤原季節さんによる朗読と、羊文学のギターボーカル・塩塚モエカさんの音楽による公演『迎夏 夏と朗読』を観た。魂がふるえた。

 

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わたしは語らないことで守られる美を信じている。自分にとって大切な作品や大切な言葉の一部に対し、自分の中だけに大切にしまっておきたいと思うところがある。

誰にも言わないことを選ぶことで、自分が美しいと思う部分をピックした感性をそのまま保存しておきたい。誰の考察にも感想にも触れないで、どんな言葉も周りに飛び交わせることを選ばず、感じたものだけが純粋にそこに残る。その事実が自分を救ってくれることがある。あの日観た朗読は、そういう場所に置いておきたい種類のものだった。

知らなかった強烈な感情と出会い、大きな人の熱を目の前で観る時間を過ごしたことは身体感覚まで変わるような経験だった。だからもう一生の思い出にして終わろうと思った。ただ思い直した事情があるのでこれを書いている。

 

『迎夏 夏と朗読』は新宿MARZというライブハウスで企画された、1日のみ2部制の公演だった。

コロナ前ならキャパ300くらいの決して大きいとは言えない会場だったのでチケットを取るときは争奪戦を覚悟し緊張したものだったが、当日座席の入った会場は想像を超えた状況だった。50席しかないのである。

 

つまり、あの素晴らしい公演を生で観た人類はのべ100人しかいないのだ。わたしのように2部通しで観た人もいるだろうと思うと、実際の人数は。恐ろしい。配信された回はあったが、こんなミニマムな人数を目掛けてあんな公演が用意されたのだと思うと、ゾッとする。こんなふうに演者が魂をつかった公演がご時世のせいでどのくらいの量見過ごされているのだろう。

わたしはあの公演をこの目で見たと残すことで自分の気持ちに対して決着をつける責任があると思った。

そして配信チケット購入の時間がギリギリまだ残っている。せっかくならやはり多くの人に観て欲しいので、この文章が誰かに届くかどうかは置いておいたとしても、終わる前に間に合わせたい。時間がないので事実関係の確認をすっ飛ばしてしまうかもしれない。それでも今覚えている見てきたことを残すことに意味があることを信じる。

 

 

藤原季節さんのことが好きになって2ヶ月ほどになる。

急激に自分の中に季節風が吹いた(季節だけに)せいで人に彼の話をすることが増えたが、彼のアイドル性、どこに行っても主役になってしまうキャラクター、分かりやすくキャッチーな部分が口を突いて出てくる言葉になりやすいことに自覚的になってきた。

スターっぽいエピソードや人物像の面白さが第一印象になりやすい人であることは間違いないと思う。舞台挨拶で唐突に文脈なく服を脱いでBCG跡を見せてきたり、かと思えば人目を厭わず作品に対する思いを語りながら大号泣したりする。その姿は過激なように見えてなぜか人の気持ちを引かせてしまわず、魅力的に写ってしまう。だから彼の作品や演技や感性を語ることが目立ちにくくなるかもしれない。

例えば今回の朗読の宣伝なのか突然Twitterに舞い戻ってきた彼の3ツイートはそれだけで力がありすぎた。

 

 

 

 

朗読を終えた今これをみると意味が分かって泣けてくるので、本人はかなり本気でこれをやっていると思うのだが、これだけ見たらやっぱり面白く不思議な人柄が全面に出てくるし、気軽にツッこめる隙がたくさんある魅力的な人だと思う。なんで半裸なんだよ。

 

 

それでも聞いてほしい。藤原季節という人はすごい人だった。

 

 

 

わたしが好きになった頃にはすでに主演映画も全国で数本公開されていたし、大河ドラマにも出てたし配信サービスに彼の作品が追いきれないほどある売れっ子であったので、自主企画をライブハウスと共同で打つという取り組みにまずは驚いた。

定期的に朗読が行われていたらしいことは後から知った。好きになった人がこういうインディペンデントな精神を持っている方であったことはシンプルに嬉しかった。自分の表現を希求する人のことは好きだ。ただ配信のみの公演は後から見ることができず記録に残っていなかったので、どんなものなのか分からない状態で公演を楽しみにしていた。

 

披露するのは夏目漱石の短編『夢十夜』と発表されていた。寝る時に見るほうの「夢」の話が描かれる10篇は、矛盾があり理解の範疇を超える夢らしい描写が続く。そのぶん人の根幹や情緒が浮き出るようで瑞々しい。

共通するワードが数本にあるものの同じ人物は出てこないので、あらすじを描きにくく、ストーリーテーリングするには難儀かもしれない。乱雑に表現すれば『世にも奇妙な物語』のような、ゾッとするもの、不思議なもの、美しくロマンチックな断片がある。

なぜこの小説は「夢」らしく読めるのだろうか、などの視点から分析される作品でもある(それこそ夢分析や心理学的観点からも語れそう)。解釈も分かれるので、漫画や映画など関連作品もある。自分の見た夢でさえあんまり記憶に残らないし、整合性に欠ける夢の話は物語を追い難くなる題材でもあるので、ともすると眠りを誘う。なぜあえてこれに挑戦するのだろうか?

もうこのチャレンジングな精神を背景に感じるだけでかなり「好き」が溢れるのだけど、公演直前に公開された愛読書を語る記事によれば純粋に好きな作品らしいことが分かり、彼の芸術に関するセンスも「信頼できる!!」と山に向かって叫びたい気持ちだった。

 

www.ellegirl.jp

 

 

朗読の企画で音楽をその場で鳴らそうとしていることも面白い。しかもお相手が羊文学の塩塚モエカさんであったことも本能的に素晴らしいと思った。舞台の上で優雅に椅子に腰掛け、夏目漱石の本をめくる音が聞こえ、物語を彼の声で聞く。きっと朗読には解釈が含まれる。短編と短編の間に、彼女のギターと歌が聴こえる。完璧だ。好きな人を人選していると直感した。目撃しないといけない。

 

とりあえず何が行われるのか不明なので自分もできるだけ丸みのある石を拾って持ち帰って一緒に過ごしてみた。夢十夜の中に石が登場するので、それのイメージづけのために持って稽古してるんだろうなと思ったのだ。

 

 

やってみたが素人にはよく分からなかった(それはそう)。

 

 

 

会場に入ると、自分の席が最前列中央で目眩がした。

なんとか気を確かに持って座ると薄いベールに包まれた舞台にはギターとソファが並んでいた。ソファの上に白い布がかかっていた。天井にはドレープ幕がかかっていた。想定していた「朗読」の世界とあまりに違ったので戸惑った。何が始まるのだろうか。

 

開場時間の30分後に幕はあいた。もそもそとソファの上が動いた。わたしがソファにかかっている布と思っていたものは白い服を着て丸まっていた藤原季節だった。そんなのアリだろうか。なされるがままになるしかない覚悟をした。

 

そこから先に起こったことは今の時点で語るにはネタバレになってしまうので抽象的な話だけしていきたい。

 

わたしが想定していたどの朗読とも違っていた。そもそも彼は本を持っていなかった。全ての話は読まず、順番も変えていたし、かなり構成を練られた演劇のようでもあった。それでも原作に忠実だったし、「朗読」らしさがあった。同時にしっかりと彼の解釈もよく分かった。

音楽は、劇中歌のようにも効果音のようにも使われていた。目から鱗がボロボロと落ちた。綿密な打ち合わせと思考の手数を感じた。どこからどこまでが彼による構成なのだろうか?彼は演者としてだけでなく、おそらく脚本も演出も手掛けていた。朗読でここまで?凄まじい。いわゆる朗読劇をやろうという出発点でなく、作品の表現の起点に朗読があるといった感じだった。作品を考えることを諦めない人の結果だと思った。

 

モエカさんの歌は幻想的な空間に自分ごと連れていってくれた。ライブと言っていいくらいの登場時間だったと思うけれども、ワンマンショーのような雰囲気にならず、作品にのっとって音楽が鳴らされていた。朗読とともにある音楽だった。物語をつなぎあわせる役割でなく、絵本の挿絵のような形でそこにあった。どんなバランス感覚なのだろうかと思ったけど、答えは原作への愛なのだろうと思う。

 

 

いったいどんなふうにあの物語がまるごと入って、口から声として出ていたんだろう。不思議なのだけれど、一人芝居のような構成なのに、朗読と感じられた。その要因のひとつには、声と滑舌が素晴らしいことが挙げられると思う。感情的でエモーショナルなシーンは少なくないのに、声が震えても顔が動いてもそれでもはっきりと何を言っているか分かる。人の目ってこんなに丸くなるの?と思う瞬間も、全てが黒目に見えるように美しく目を細める瞬間もあった。とにかく表情変化の初速が早かった。

顔が動く。顔が動くということは、口の中も広がったり歪んだりするはずで、声も変化すると考えるのが普通だ。それでもずっと声はこちらの頭の中に文字が打ち込まれたように明瞭だった。コントロールされているんだろうと思う。自分の演技を見せてやろうという気持ちが見えない。原作を伝えようとされている愛情を感じた。

それでいて、確実に何か憑依してるんではないかと思う瞬間があった。目の前にいる彼は体温が見えるくらい熱く、圧倒された。本当に夢の中のようだ。

 

変な話をするのだけれど、わたしは彼としばらくずっと目が合っていた。これはわたしだけでなくて、あの会場にいた人はそういう瞬間が訪れていたんじゃないかと思っている。物理的に目が合っているわけでないのに、真っ黒な目の奥を感じることができた。集中することで、解放感を得る。身体感覚が変わっていく、ああいう経験は他になかった。

 

特に感激したのは最後に読まれた一編だった。原作でも一番大好きな一編だ。

わたしはあれを静かに恋人を思う淡々とした愛の話だと思っていたが、彼の解釈はまるで違うものだった。狂おしい愛情が美しいと思えることがあるのだなと、ただただ涙が溢れた。劇中で植物が育つ瞬間を、モエカさんが表現していた。音楽にこんな力があるのかと脱帽した。

 

これは想像の域を出ないのだけれど、今年公開された映画『くれなずめ』や『のさりの島』が表現に大きく影響しているのではないかなと思った。見えるものと見えないものの境界は曖昧で、何かを信じる力があれば実存にそんなに意味がないのかもしれないということ。「夢」の話でちょっと見たことのない解釈が足されていたように思った。そしてあれを見たらとんと腑に落ちてしまった。

 

 

公演が終わるとしばらく動けなかった。手が痺れる感じがした。ぐったりとしたけれど、不思議とめちゃくちゃお腹が減っていて笑った。生命維持を身体が欲している感じがした。大自然にでも触れたみたいだ。

 

 

思えば昨年の初めての緊急事態宣言の頃、どう生活すればいいかわからなかった中、思考を止めてはならない事情があった。あらゆる世の中の仕事がそうだったと思うけれど、守るべきものがあったし、守るべき人がいた。それをどうしたら止めずにいられるのかを考える責任があった。

それがもう1年続いているのに、まだ自分ひとりで考えなければならない段階のことがあるし、状況が変わり続ける。それは考える必要があることだし、続けようと決めてもいる。そうして仕事を終えた帰路に、缶のアルコールを片手にフラついている人たちとぶつかりそうになると、泣きたくなる。一時的に心が折れる。やめてしまいたいと思うし、何も考えたくないと思うこともある。想像力がなくなってしまう。別に彼らが悪いわけじゃない。

 

そういう毎日でこの公演に出会えたことは大きな希望だった。鑑賞する人と夏目漱石の作品のために、大きな愛と敬意を持って表現している人がいること、それが素晴らしかったということは記念碑的な出来事だった。あの公演のどこからどこまでが彼の構成で企画だったのかは知り得ないけれど、細部まで愛があった。

 

ライブハウスを出て食事をし新宿駅に向かうと、大きく月が出ていてた。印象的に月の光が出てくる一編を思い出した。朗読の続きみたいだった。二日後に満月という日に雲もなくビルに埋もれずガンと出ていた月は美しくて妖しくて、夢との境界が曖昧だった。日常も悪くないと思えた。

 

shinjuku-marz.zaiko.io

 

よかったら観てください。2021年7月25日20時まで販売、23:59まで視聴できます。