年中無休で恋心

たのしいおたくライフを送っています。

映画『のさりの島』が見せてくれた目に見えない優しさ

3つ年下の弟が高校生の頃に、保護者会に出席したことをよく覚えている。

両親共働きの家も少なくない地域であったこともあり周りのお母さん方は特に驚かずに受け入れてくださったが、問題は知らないところで起こっていた。教室にたどり着くまでの間に、学校に残っていた生徒たちに目撃されていたのである。

 

意気込んでスーツ姿で訪れていたわたしは「ついにうちの学校にも新任の女の先生が来る」という噂の的になったらしい。教員や職員にほとんど女性のいない学校だったため、妙に目立ってしまったのだ。

帰り道、遠くから「先生あの人じゃね?」と声が聞こえた。わたしはなんとなく事情を察し、そのまま楽しませていただくことにした。10代のくせに慣れないヒールの音を鳴らして、先生を気取り男子校の廊下を闊歩するのは何ともいえない楽しさがあった。

 

あの後いつになってもやってこない新任教師に本気で傷ついてしまった人がいたら謝りたいが、2、3日のちょうど良い話題になっていたらしいので安心した。

 

 

 

思えばこの日のように、いつもの居場所でない場所で自分が何者かになれる瞬間にずいぶん救われてきたと思う。

 

過去と連続してできた自分像で頑張らなきゃいけない日々の中、自分の肩書や過去や役割を表明しなくても人によって受け止めてもらえるだけで、ふと肩の力が抜けることがある。そういう時間を支えてくれていた人の見えない優しさがあることに気付けたのは、ずいぶん大人になってからだった。

 

過去自分を助けてくれた無言の優しさを具体的に思い起こさせてくれたのが映画『のさりの島』だ。

 

 

 

主人公の若い男(藤原季節)は、単独犯のオレオレ詐欺師である。彼がどこからやってきてなぜ詐欺師になっているのかは明かされないが、その手法はあまりにも稚拙だ。おまけに彼は電話がつながった詐欺の対象者の艶子おばあちゃん(原千佐子)とズルズルと共同生活を始めることになる。

ミステリーかコメディのような設定だが、どちらにもならない。

若い男が真っ赤なバックパックと鮮やかな色のウィンドブレーカーを脱ぎ、艶子さんに差し出された淡いチェック柄のシャツを着ると、だんだん穏やかな、天草に住む若者になっていく。不思議な距離感でその日々が描かれた。

 

 

 

若者が大人と触れ合って成長する物語を想像するとき、確かな知恵と大きな愛で導いてくれる存在を期待してしまうが、艶子さんはその像とは少しズレている。

彼女は訪問した若い男を「ショウタ」と呼び、孫として彼を迎え入れるのだ。声も見た目も赤の他人なのに?若い男にとって彼女の言動はボケてるんだか何なんだか、掴めない。 

 

 

いっぽう映画の鑑賞者としてのわたしたちは、若い男からの電話を切った直後に艶子おばあちゃんが仏壇へ急ぎ写真を隠す姿を見て、彼女がボケているわけではないことを知る。

若い男が何を求めていたとしても、彼の嘘を守るために孫の死を隠す。それはなぜなのかを追うことになる。

 

 

そして、若い男の変化も。

 

 

長い旅をしてきたと思われる若い男は、孫であると勘違いしている艶子おばあちゃんからの風呂の誘いに負け、お金を持って逃げるはずだったのに家に上がり込む。

風呂場を出ると夕食ができていて、彼は出された厚焼き卵を真ん中から箸をつけて不作法に食べ、「うめえ」と言った。豪快に酒を飲み朝まで眠り、家の中を荒らし、その間に艶子さんが食事を作ってくれていたことに気付く。朝食で出された卵焼きは、端から食べた。

 

洗濯ものの干し方、お灸の仕方、お店を閉める時間の把握。人と近づいていく方法が「丁寧に生活を送る」ことであることを知った若い男は、優しくなっていく。ハンガーにかけた服の端に洗濯バサミをつけるようになり、お灸をしようかと声をかけるようになり、ただいまと言うようになり、頼まれた倉庫の片付けの進捗を報告する。自分が頼られると嬉しいという感情が生まれれたことが、その家の特有の家事に慣れていく過程が映し出されることで描かれていく。

 

 

 

艶子さんの営む楽器店に設置されたお釣りの箱の勘定は合っているのかどうか、若い男は心配そうに問う。合っていると艶子さんは答える。彼は初日にこの箱から釣り銭を盗んだ。

 

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そして艶子さんは彼に何も問わない。 

 

 

 

 

 

渋谷ユーロスペースで行われた映画『のさりの島』初日舞台挨拶には、主演の藤原季節さん・小山薫堂プロデューサー・山本起也監督に加えて、ロケに同行した小谷野祥子さんが登壇された。

小谷野さんは艶子役の原知佐子さんが映画に参加した経緯や「藤原(季節)くんっていいのよ、絶対に売れるよ」とたびたび繰り返していたというエピソードを、原さんのお写真を胸に抱えて軽やかにお話しされる。

 

『のさりの島』は語ることと語らないこと、実存とそうでないことの境界を曖昧にすることの優しさを映像化したような映画だったが、作品への気持ちがそのまま切り取られたような舞台挨拶だった。

映画の中では仏壇で写真を隠されたが、ここでは写真が持ちこまれ、原さんがそこにいらっしゃった。本作は原知佐子さんの遺作となった。

 

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人と人が偶然居合わせただけの無関係な間柄にも意味があること、そこにまやかしが必要なこともあること、それでも存在を認め合い肯定しあう優しさに気付かせてくれる作品に出会えたことはわたしにとって素晴らしい体験だった。優しさとは、知性なのだと思う。

 

あの保護者会の日のことを思い出す。

わたしは幼く浅はかだったものの、何としても高校生の弟を合宿に連れていってあげたかった。「思い」があるだけで具体的な社会と馴染む方法を知らなかったから、周りの保護者にまともな挨拶もできていなかった。

少しでも馴染もうとスーツなんか着たわたしはやっぱり浮いていたはずで、色々言いたいこともあっただろうと思う。それでもそっとしておいてくれたお母さんたちによって、わたしは保護者になれたのだと思った。

大人と世間話できる余裕はなかったようなわたしを尊重してもらえていたこと、居てもよい場所にしてくれた人がいたことを、この映画と共にいつも覚えていたい。