年中無休で恋心

たのしいおたくライフを送っています。

映画『中村屋酒店の兄弟』に寄せて ーわたしは旧劇場版エヴァンゲリオンが観られない

20歳くらいの頃、確かアニメの再放送を観たかなにかで、唐突に『新世紀エヴァンゲリオン』にハマった。

その心的世界と戦闘シーンの格好良さ、キャラクターに魅せられ一気にアニメを見切ったものの、問題が立ちはだかった。わたしは小さい頃から輪ゴムを指で広げられないほどのビビリで怖がりであり、特にグロ描写にはめっぽう弱い。続きが観たいが、劇場版『Air / まごころを、君に』は心がえぐられるほどグロい、という噂だ。わたしは観られるだろうかと真っ先に相談した相手は弟だった。

 

弟は、怖いぐらいに優しい男の子だ。

漫画やアニメ知識が豊富だが、それまで全くといっていいほどそれらのコンテンツに触れていない唐突な姉の相談に嫌な顔ひとつせず、かつ必要以上のことを言わないで、わたしの気持ちを尊重し提案してくれた。

「絶対に観た方がいいと思う。でも○○さんには確かにキツイかもしれないから、一緒に観よう」

「僕はもう観てるから、心の準備が必要なところで合図するね。やばそうなら下向いてくれれば何が起きてるか説明するし、心配いらないと思う」

「ちなみにだけど、キャラクターは誰が好き?」

 

後日時間を合わせてリビングに集まり、ソファで横並びになって『旧劇場版エヴァンゲリオン』と呼ばれるそれを観た。どことなく楽しそうな弟は何も言わず気配だけを添えてくれ、本当にわたしが目を覆いたくなるシーンの時だけ、ひと呼吸置けるくらいのタイミングで「気をつけて」と言ってくれた。

没入しながらも心のダメージを最小に抑えられたのは、紛れもなく彼のおかげである(余談だが、アスカが好きなわたしにとって、好きなキャラクターを聞いた彼の質問は見事で絶妙だった)。

 

その年のわたしの誕生日、弟はプラモデルをプレゼントしてくれた。大きな箱を開けると中身がなく、驚くわたしを置いてニコニコ部屋を出ていき、「じゃーん」と奥から持ってきてくれたのは、組み立て済みでぴかぴかのエヴァンゲリオン初号機だった。組み立てたのはもちろん弟で、シールを貼るおいしいところだけ残してくれていた。

彼は特に何も言わないが、姉がいっちょまえにプラモデルへの憧れを持ったアニメ初心者かつ、あまりにも手先が不器用であることを考慮してくれていたのだと思う。

 

 

兄弟はいる?どんな人?と訊かれた時にわたしは大抵この話をする。こんな言い方をしてしまっては何だが、取り立てて語れるエピソードがこれしかないからだ。

 

 

コツコツした努力を厭わない品行方正な弟は、自分にはひっくり返ってもできないことばかりができ、育っていくほどに共通の話題が減った。たまに通学時間が一緒になったが、歩きながらでも単語帳を開いている彼の背を見守り、歩調を調整して別の車両に乗った。多分向こうも気付いていたんだろうと思うが、指摘されたことはない。

昔から静かに尊敬していて、発言や行動を刺激に「この人はやっぱり一番すごい」と思うことがある。変にそれをドラマチックにしたり、バカ可愛がるような言い方をするしか伝えようがない距離感になったのはいつ頃からだろう。離れて暮らす今は余計に、1人になったときどんな顔をしているのか分からない。

きっと後ろめたいのだ。今更二人っきりにされたら、困って世間話をして、お酒を持ち出すだろう。いつの間にか、そんな気まずさもそれはそれで楽しめるような大人になった。思えば、わたしが彼に教えてあげられたことなんて、彼より3年早くに飲めるようになったお酒くらいなものかもしれない。

 

自分のお金で行ける居酒屋の日本酒は酔うから飲まないほうがいいよ。あと、ピッチャーは頼まないで。色んな種類を一度に飲まずに帰ってくること。お酒は美味しいものを、家で覚えたほうがいいから。

お世話になっている近所の酒屋で勧められ、張り切って用意しておいた大吟醸。勉強熱心な弟は酔いながら机で交わされるような情報もメモしてノートなんか作るもんだから、すぐに知識が抜かれるのも当然である。あっという間に、家族の誕生日に「○○さんにぴったりなワイン」をどこからか仕入れてくるようになった。………ワイン?

やっぱりわたしに教えられることなんてひとつもないし、いつだってすれ違う。

 

 

 

映画『中村屋酒店の兄弟』の中村兄弟を観ながら、わたしはこの少ない思い出で彼を語るあまり、もう彼と並ぶことを諦めてしまっているのかもしれないなと気付き、突然感情的になった。

相手の全部は肯定できない自分、兄弟だからバレてしまう優しいかけひき。「兄弟」特有の距離に何があるのかを、こんなに丁寧に追ったことはない。

どこかひとつでも触れるところが違ったらきっと伝わることが変わってしまうだろう丁寧さでそれを見せることに、こんなに意味があるのだと伝えてくれる行為そのものが優しい作品だった。冒頭書いたような記憶が、映画を見ながら鮮烈に呼び覚まされる。

 

nakamurayasaketennokyoudai.com

 

45分間。中編と呼ばれる長さのこの映画は、びっくりするほど物語が静かで説明も少ない。でも何も足りないものがない気がして、その存在ごと、兄弟のようだとも言えるかもしれない。

 

内容はタイトルの通り、酒屋に生まれた兄弟の話だ。ポスターには店先で並んだ兄弟の写真が採用されている。

筆文字で書かれた看板を下げる中村屋酒店は昔ながらの町の酒屋で、田舎町にて営まれているように見える。木枠のガラス引き戸には赤い「たばこ」のシール。立てかけてある地酒ののぼり。手書きの「しぼりたて酒粕」の短冊。店内にはキリンの冷蔵ショーケース。仕事の前に立ち寄る人の缶コーヒー、帰省する家族のために用意しておく瓶ビール。店の奥では、店主が生活しているのだろう。店先の写真だけで、奥行きを感じる。前掛けを腰に縛り店頭に立つ人がいれば、それはもう良い酒屋に違いない。物語が起こる余白がある。

 

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https://www.cinequinto.com/parco-movie/movie/?id=713

 

 

中村屋酒店の兄弟』は「第13回田辺・弁慶映画祭」TBSラジオ賞、「第30回東京学生映画祭」グランプリをはじめ、数々の映画賞を受賞し、映画祭に出品された。映画ファンの間での反響がとても大きかったと評判であるいっぽう、後からその情報を知ったわたしにとっては配信・ディスク化・上映の機会がどれもないという、手の届かぬプレミアな存在だった。

今年になって劇場公開の知らせを聞き沸き立ったが、主演の長尾卓磨さんが白磯大知監督と制作会社を立ち上げ、劇場公開に自ら動いたというから驚く。

www.asahi.com

 

渋谷のシネクイントで2週間先行上映があり、その後2022年3月18日より全国上映が始まった。

印象が都市伝説のようだった本作は、上映スタイルそのものもとても珍しいものだった。なんと今回は10分間のラジオドラマから本編がスタートする形で上映されている。ラジオドラマなので、画面には何も映らない。現代的な生活に突如訪れる暗闇は、人生に間や、静寂を与えてくれているようだ。

映画の上映中にスクリーンが休んでいるのだから、わたしだって休んでもいいだろう。喧騒を忘れて、今、ここにだけに存在しようと自然と思え、まるでお正月三ヶ日のような贅沢な気分で時間を過ごすことになる。

 

暗闇の中で耳を澄まし、並んだ座席の数だけ、思いを馳せる物事があるとたまらなくなって涙が溢れた。いつだったか、電車に乗っていたときに友人が「帰り道に電車の車窓に映るマンションの灯りが見えると、人が生きてると思って感動する」と言ったのを思い出した。彼女は電車に乗るだけで、この感覚に飛んでいけたんだなと、今になって知る。わたしはその感性をすぐに忘れて掴み取ることができないから、きっと永遠に映画館で過ごす時間が必要なのだ。

 

白磯大知監督は、地元の酒屋がなくなってしまった実体験を起点にしてこの映画を製作したと語る。失われつつある町の酒屋も、こんなふうに何かの気持ちを取り戻してくれるような、何かを掴める契機になるような存在なのかもしれない。永遠に残るものはないのかもしれないが、それでも、その場でしか持ち得ない思い出や感覚や気持ちがあることはわたしにも想像できる。

 

cinemotion.jp

 

映画の中では、両親から継いだ酒屋を営む兄のもとに、東京へ出て行った弟が久しぶりに帰ってきた日々が描かれた。

決して会話が多いわけでない男兄弟は、酒屋の店先の灰皿を挟んで煙草を吸う。酒を挟んでテーブルにつく。釣竿を下ろして、やっと横に並んで腰を据える。何かが隙間を埋めないと並ぶことのできないその佇まいは、それだけでそれまでの二人の歩みや空白、距離を観る人に理解させる。鑑賞後心に残るのは二人の起こす静寂、間だった。

 

長尾卓磨さん演じる兄の弘文は、とんでもなく優しい人だ。穏やかに人やものを見つめる横顔が印象的で、脳裏に焼き付く。「優しい」とは何だろうかと、観ていて不安になった。

藤原季節さん演じる弟の和馬は、よかれと思って的外れな気遣いばかりを口にする。彼の残酷ささえある無邪気な発言を、兄は「おお、おう」と特徴的な声を出し笑って、全て飲み込む。その顔は照れているようにも見えるし、相手に対する拒絶にも思えた。優しく肯定し、どこかで否定している。ものの良し悪しとは、対立と許しとは、現実ではこんなふうに曖昧だったことを思い出した。

 

主演二人の表情、間が凄い。じっと彼らのこれまでを想像する時間があったということは、それをじっと観ていられる吸引力のある画面だったということだろう。久しぶりに弟を迎え入れる兄の目、とあるタイミングで「ありがとうね」と兄に言う弟の目は、どんなふうにも見えて繊細だった。

表立って波風を立てなくても、自分が飲み込んで済むのならと思える器量。感情的にならないように気をつけていても、漏れ出てしまう熱を含む性質。何かドラマチックな事件が起きなくても、どこかのポイントで生活がすれ違う兄弟。成長の過程で相手を否定したくなることがあるが、それでも優しくしていたい。こういう表情は、これまでの人生で見たことがある。頭の中で自分の記憶が打ち上がるように蘇る。

 

弟にとってのわたし。出会う人に影響されて進路を決めたわたしはちゃらんぽらんに見えただろうと思うし、大人と喧嘩するくせに可愛がってももらえていたわたしは、社会に対して失礼な女に見えただろう。弟の顔から漏れ出ていたものを、わたしは忘れてあげられない。でもわたしはわたしなりの方法で、こういう姉として存在していたのだ。それはわたしじゃない。

 

素直に生きてきた、中村家の弟の和馬のことがよく分かる。和馬が兄に幸せになってほしいと本気で思っていることも、兄に提案したことも、全く嘘ではないのだろうとわかる。相手に対する少しの疑念が伝わってしまいあっても、それでも基本にあるのは相手によく生きていてほしいと純粋に思う思いやりだったりする。信じてほしいのは、彼も彼なりにまっすぐ生きていて、関わる人を大切にしてみたいと思っているのだろうということだ。

これは弟に対する自分であり、和馬を通して自分に言い訳をし始めていることも自覚している。どこからどこまで作品のことなのかどんどん曖昧になっていく、どこまでも素敵な映画だった。何度観ても消費されない。

 

きっと弟があの日までにエヴァを見返してくれていただろうことや、プラモデルを組み立てるのに何時間かかるのかを、知っていると伝えられたらよかったのだ。

正月や誕生日に帰ってこれる場所くらいは持っておこう。そういうことを繰り返して、いつかまた横並びになって家で映画ぐらい観られるようになるかもしれない。