年中無休で恋心

たのしいおたくライフを送っています。

イヤホンは嫌だと思えなくなった日のために ー劇団た組『ぽに』観劇記録

「イヤホンは嫌だよ」

泣き腫らしたらしい顔の彼女の力強い宣言を、わたしは全面的に肯定した。

同じ大学に通う友人である彼女は、付き合ってはくれないが部屋に呼ぶ男と不毛な関係を続けていた。

冒頭のセリフに至る話はこうだ。もうすぐ彼女の誕生日であることを知った男は、プレゼントをあげようかと言ってきた。彼女は喜んだが、続く言葉は「イヤホンはどう?」だったという。

 

「そうではないじゃん」と彼女は主張する。

「確かに音のいいイヤホンがあったらうれしいよ。欲しいと言ったこともあったかもしれない。でもそうじゃないじゃん。今の私はあいつと、どこかに出かけたり、一緒に何かをしたりして、そういう記憶を思い出せる約束がほしいんだよ。何で親切の顔して1人で過ごすための道具を与えられて、わたしの気持ちが済まされなきゃならないの。感謝はしなきゃいけない価格の消耗品で」

その通りだった。

 

心を殺さないと乗り越えられないだろう彼女の時間は想像するだけで果てしない。何の約束もない状況にも鈍感にならず「誕生日にイヤホンを贈られそうになっている」事実にちゃんと傷ついて全身で恋をしている彼女は、とても格好良いと思った。

彼女が話し終え一息ついた頃、わたしは「イヤホンは嫌」と口に出した。彼女がどんな感情を見過ごしても保ったギリギリのプライドから出てきた妙に語呂の良いこの言葉は、口に出してみるとこの状況を面白がれる勇気になった。振り切った勇気は、ときに笑いを呼ぶ。わたしたちは「イヤホンは嫌」としつこく唱え、プリクラの落書きに書き、思いつきで熱海に行った。安いビジネスホテルで熱海城を眺めて馬鹿みたいにお酒を飲みながら、この言葉をもってプライドを持っておこうと誓った。どんなに誰に何を許しても、譲れないことがある。拒否しないと失うプライドや、指針や、感情がある。選択しないことが、その後の人生への責任に対して誠実でなくなることある。そのことを決して忘れない。

 

 

それから彼女が元気にいとしい家族をつくるほどの年月が流れたが、わたしは観劇した舞台で「イヤホン持ってる?Bluetoothの。あげるわ」と言う男を見た。付き合わない女にイヤホンを贈る男はここにも存在したのである。

機械的な匂いに愛着を沸かせにくく、壊れても捨てるに惜しくならない。贈った事実で搾取する感謝、彼女に対するその後の人生の責任の負わなさを「Bluetoothのイヤホン」だけで見事に浮き出す人物像が鮮やかだった。

 

劇団た組の舞台『ぽに』は、やりたいことが見つからず何となく留学を目指す円佳(松本穂香)が主人公だ。彼女の視界として描かれる世界は狭い。告白しても付き合ってくれない役者の誠也(藤原季節)と、円佳のバイトシッター先だけで構成されている。

渡航先でシッターとして働くことのできる制度であるオペア留学を目指す彼女は、留学エージェントに40万円を払っているのに、なぜか参考書での自習を勧められるだけで英語の勉強の機会がなく、いつまでも面接をクリアできない。その間研修という名で斡旋されているアルバイトで5歳のれん(平原テツ)くんの世話をする日々を送り、何をしているのか自分でもよくわからなくなっている。そして好きな人である誠也には避妊をしてもらえず、「ピル飲まないの?」と言われる。いかにも怪しい環境、何かあったら自分のせいになってしまう状況。どこかに相談すれば何かがきっと変わるが、視野の狭い彼女はそこから抜け出せない。

円佳の優柔不断さ、努力できない姿にイライラする。誠也のようなクズがムカつく。

実社会に彼らがいたらこんな印象を持ったまま遠ざけてしまうかもしれないが、状況に至る要因は彼らの気質のせいであると言い切れないのではと、社会という構造の残虐さに向き合わされる。凄まじい舞台だった。

 

 

『ぽに』のセットは公園の砂場のような桜色の円形舞台で、そのくっきりと区切られた丸の中で繰り広げられる物語は、円佳のこの状況からの抜け出せなさ、視野の狭さが強調されているようだ。舞台外にはブランコ、アスレチックネットがある。円佳は部屋から玄関に出るシーンで、わざわざアスレチックネットを登る。彼女にとって外の世界に助けを求めることは、不安定な網の上を這って登るようなものなのかもしれない。

 

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「鬼ごっこ」が物語の発想の起点となったという『ぽに』では、登場人物たちが婉曲的表現で責務から逃げ、責任を押し付けあっていた。可愛い大きな手の形をしたぬいぐるみを手に持ち、人を叩いたり触る ——— つまり「タッチ」する ——— ことで責任の擦りつけが強調される、舞台ならではの演出も見受けられた。

 

 

 

逃げ足が遅いといつまでも鬼であり続け、終わりがない地獄ゲーム。鬼ごっこは実はとても残酷であるし、そのメタファーを使って社会を見てみると不思議なほどに辻妻のパズルが合う。これが世間であるのだと言葉にすると何とも恐ろしいが、押し付けられる側はいつも押し付けられ、逃げ惑う。うまくすり替えられた責任の在処がいつの間にか集まって、損な役回りばかりになる人が現れる。

 

身体的に・ジェンダー的にも受け止めることが強要されることの多い「女性」として登場する主人公の円佳は、それを全て仕方がないこととして受け止めてしまう。彼女が出会う世界は、わたしも女性として生きる上で内面化して引き受けてしまっていた世間だった。

ぬいぐるみの手を使って軽妙に円佳の身体に触れながら避妊をしない性行為に持ち込もうとする誠也は、あまり思いつきもしないような言葉を大きめの声で言えてしまうキャラクターに魅力があり、一度笑ってしまったら受け止めたと思われ得ることがリアルだ。

「お口に酸味が欲しいんだけど」

「嫌なら嫌って言わないと、入っちゃうよほら」

見つめられた女性は拒否できなかったら自分だけで責任を取らなきゃならなくなってしまう可能性があるのだと、あまりの恐怖に涙が零れた。

 

こう書き連ねるととてもシリアスな舞台のように思えてしまうが、この円形ステージにはカラフルなおもちゃ、金属でできた箱、机が散らばり、全体的な雰囲気が可愛い。モノたちが様々なシーンで次々と役割を替えて登場するのが印象的だ。

 

 

 

おままごとのように何かの「つもり」で登場人物たちがモノを操ると、鮮やかな日常が映し出される。机を逆さにして中に立つと電車になり、箱は電子レンジになり、縦に積まれるとマンションになる。美術、脚本、演技の力でわたしたちの想像力が拡張されていく。くるくる変わる視覚的な面白さとリズミカルなセリフ回しに、個別具体的な円佳の現実の辛さと並んで、「誠也が好き」である日常の愛しさも見えてくる。

誠也が声を張ると、知っているはずの単語が新しい意味を帯びる。すれ違う人の物真似を誇張して何度もする彼の滑稽さに思わず笑ってしまう。この人が可愛い、と思える毎日は楽しい。日常とは本当は、愛すべき可愛いシーンと残虐さが並行しているものなのかもしれないなと、舞台と対峙しながら目がパチパチした。

そして物語は突然ぐっとファンタジーの色を帯びる。

 

ある日れんくんの家でいつも通りシッターのバイトをしていると、大地震が起き、火災に見舞われる。円佳はホテル代の手持ちがなく、避難先も見つからない。がらんとしたコンビニに食料はなく、水も人数分しか確保できなかった。不安になるれんくんはお腹が減った、忘れ物を取りに行きたいと次々と要求を言い、円佳をぬいぐるみの手で思い切り何度も叩く。

想像力を携える余裕があれば、見たことのない風景に怯える子どもが守られるべき存在であるともちろん理解できるが、円佳にはもうそれができない。

 

会社を通してバイトの延長を申し出てくれないれんくんの両親。お金を払わずコンビニから盗んだ人があり付ける食料。声の大きい人たち、空気を支配することができる人たちを中心に社会がうまく歯車を回すほどに自分に降りかかる不幸が、災害を前にあまりにも大きく見え、自分だけを被害者にしてしまいたくなってしまう。蓄積した得体の知れない負ばかりを背負う。円佳は勢いに任せてその場を立ち去ろうとするれんくんを放って、ついに遭難させてしまった。

 

ふらふらする足元を引きずって円佳が行く先は、やはり誠也の家だった。思考ができないことで最悪の方に自ら飛び込んでしまう背中がリアルで、声が漏れそうになる。れんくんを探すことも、誠也が身体を求めてくることに正しく拒否することもできない。迎えた朝、気怠く誠也と過ごす部屋に、5歳だったれんくんが43歳の姿になって現れる。円佳はれんくんが「ぽに」になってやって来たと誠也に説明する。

 

劇中ではっきりとは説明されなかったが、「ぽに」とは生死を彷徨った人物が肉体から離れて誰かのもとに現れる、生き霊のようなものだと思う。ぽにの付いた女性にできた子どもは、ぽにに奪われてしまうという言い伝えがあり、お払いをする習慣がある。しかし、お払いが成功すれば代償があるという。

たったこれだけの設定を置くことで、円佳は考えうる最悪の形で自分の行動に決着をつけることになる。実態のわからない「ぽに」が付いた円佳は巻き起こる展開に次々と飲み込まれ、最終的にはれんくんが息を取り戻す代わりに視力を失くした。そして避妊をしない性行為の責任として、おそらく妊娠している。

 

彼女は物語の最後の最後に誠也の言葉に丸め込まれずに向き合うことになるが、すでに蓄積されたものが多すぎていた。「拒めなかった」「気付けなかった」責任も負っていかなければならない。ぽにという不思議な存在をとおして具現化された彼女の負ったものたちはあまりにも大きいが、これはただのファンタジーでなく、現実にきっとあることだろうと思わされる説得力に、身体の奥にズシンと残るものがあった。

 

初回に鑑賞した直後はとても面白い!とただ興奮した。平原テツさんの演じるれんくんはどう見ても5歳児であり、43歳であり、実体の掴み取れなさに何度も笑みがこぼれた。円佳役の松本穂香さんの蓄積する負を背負う演技、どうしても好きになってしまう誠也を演じる藤原季節さんの実存感が素晴らしく、役者の皆さんの集中力の中で交わされた技を間近で観た経験の大きさが勝っていたんだと思う。

 

電車に揺られながら、お風呂に入りながら、頭の中を過ぎる表情やセリフをなぞっては、どんどんとショックを受けた。あれは自分の話なのかもしれない。あれは、あのときは、と思い当たることがどんどんと見つかる、日常と地続きの物語だった。

 

冒頭でしつこく例に出したのだけど、もちろんわたしは「イヤホンを贈る男に気を付けろ」と言いたいわけではない。人はこうやって、目に見えるか見えないかくらいの細やかなニュアンスを使って責任を取らないというポーズをし、受けた側は傷ついてないフリをし、湧いてきた負の感情をどんどん蓄積させていく。そして本当は傷ついているということに気が付かなくなっていく。自分に価値をつけるために、目の前の空気の一部になるために、相手の機嫌を見て喜ばせることさえしてしまう。そしてまた背負っていく。

 

物語の中で円佳と誠也は「なぜ付き合ってほしいと言っているのに答えてくれないのか」について議論になった。どう考えても間違ったことを言っていなかった円佳は、語気だけを強めて自分の主張が正しいと持ち込む誠也の声に怯え、少しトーンを下げた「イヤホン持ってる?Bluetoothの。あげるわ」の声に「やったあ」と喜んでしまった。何となくほだされて主張をやめ、自分のせいで嫌な気持ちにさせてごめんなさいと謝りさえした。直接的に同じ経験ではないが、身に覚えがある。

 

誰かや社会に対して、嫌だ、そんな扱いされたくない、と当たり前に思えていた頃もあった。「イヤホンは嫌」と唱えていた頃は若くて、無敵だった。彼女を痛めつけた男のことをクズ!!!!と言い切れていた。でも大人になった今、わたしは誠也の気持ちも分かる。うまく自分と社会が繋がらない苛立ち、その現実と向き合わないように先延ばしにしてしまう色んなこと。そして彼は彼なりに、多分円佳のことが好きなのだ。

 

自分の身に起こったらどうなるだろうと思うと、自分の咄嗟の反応に強く自信を持てない。あまりにも疲れていたら、あまりにも落ち込んでいたら、円佳のように負を蓄積してしまうのかもしれない。でもそれでも、そうして受け入れてしまうことが取り返しのつかない何かを引き寄せ得ることもちゃんとわかる。

 

具体的な誰かとのコミュニケーションでも、もっと大きな出来事に対する反応でも、向き合う相手の怖い目と向けられた背中にすがらないでいたい。鈍感力が育つ前に、自分で決めることを諦めたくない。わたしの視界もいつまでも小さくて、抜け出せない場所にいるとしても。

 

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