年中無休で恋心

たのしいおたくライフを送っています。

映画『くれなずめ』を観た後、一体あれは何だったのか全然わからなくて、でも最高に爽快な気分で、彼女と話した後みたいだった

先日、高校時代からの友達のギャルと長電話した。彼女が突然「別になんもないんだけど、あんたが好きな音楽が知りたい」と言ってくれたのだった。

高校から一貫して浜崎あゆみの歌詞に共感し続けている彼女に、教室の隅にいたわたしの趣味のどこが触れ合うだろうか。いや、自分の趣味に自信はあるが、そういう話ではないから難しい。Apple Musicと格闘しながらわたしが好きで彼女もどこかで出会っていそうな日本人のバンドや歌手を10、20と挙げたが、見事にひとつも伝わらなかった。「やっぱあんたムズいわ」と言うので二人で爆笑し、この人はやっぱり可愛いなあと、どうでもよくなった。近況を詳細に報告しあった。

 

彼女は出会った頃からいつでもどこでも物語の中心にいて、可愛くてかっこよくて、夢に恋に一生懸命!を地でいくタイプだった。無気力に時間をやり過ごしていたどう考えてもダサめのわたしになぜか熱心に話しかけてくれて今に至るが、今も昔も趣味嗜好に接点がないので共通の友人もいない。どこに興味を持ってくれたのかずっと謎だった。

30歳をすぎた頃になって「影がある感じが魅力」と言われ、そのときも爆笑した。いい大人が同じことを他の誰かに言われたらさすがに自分を省みたりしそうだが、彼女に言われたのなら、それはただのいい話である。

 

映画『くれなずめ』を観た後、一体あれは何だったのか全然わからなくて、でも最高に爽快な気分で、彼女と話した後みたいだった。なるほどと思い、よかったらぜひ映画を観てほしいとLINEした。

劇中では何度もウルフルズの『それが答えだ!』が流れ、エンドロールでは新曲が流れた。そうだ、わたしと彼女の世代にはウルフルズがいる。ウルフルズは誰と誰の間にも線を引かない。そこに乗っかるのがどんな気持ちであっても、意味なんてなくても、人をつなぎあわせてくれる。勢いに任せて中古の8センチCDシングルをネットで買った。

 

kurenazume.com

 

 

『くれなずめ』では高校の帰宅部仲間6人が、赤いフンドシ一丁で踊る「赤フンダンス」を高校の学園祭以来、友人の結婚式で披露するために再会する。披露宴と二次会の間の暇つぶしの時間、思い出す過去と今が交差して展開される物語の中で、この6人がとある人物の死と向きあわずにいたことが浮かび上がってくる。

過去のシーンでは男子たちのなんでもない会話が繰り返されていた。ダサい鞄、トイレで手を洗うことへの見解、流星群、ウルフルズ。トピックは入れ替り、何かを言っているようで何も言っていなそうな内容が飛び交っていく。わたしたち女子はあの人たちが男子トイレやカラオケボックスや誰かの家に入ってしまったらその後のことは知り得なかったが、こういうもんなんだろうなと男子がうらやましくなった。そこにいることがなかったわたしも不思議と疎外感はない。彼らの温度感でアホな会話やとんでもない展開に笑っているうち、忘れていた「死」の気配に胸が掴まれるように苦しくなる。

 

作中の死者に線香をあげに行った人物が、車で駅まで送ってもらった帰り道「なんか、お菓子もらいに来た人みたいになっちゃって」と言った顔が忘れられない。思いっきり泣くことも強がることも選べていないような、自分に湧いてくる気持ちに戸惑っているような、どこにもいけないすごい表情をしていた。彼の顔を見ていたら、自分の顔もこんな感じだったかもしれないとよぎった。わたしは、彼女のお父さんのお通夜を思い出していた。

 

わたしたちはまだ高校二年生だった。初めて出会う身近な死の感覚はあまりにも壮大で、それなのに目の前に迫ってきている決めなきゃならないことは「何時にお通夜に参列するか」や「お母さんに何と声をかけるべきか」や「今メールするのはアリなのかナシなのか」で、こんなに大切な物事を前にした自分がなんて俗っぽいんだろうと絶望した。心は追いつかないのに、進んでいくことが多すぎる。やっとたどり着いた会場で会えた彼女の彼氏の顔が、嘘みたいに整っていたことばかりが頭に残った。

 

今まで信じていたものが急に頼りないものだと思ってしまったとき、手に持ったお菓子とか、何でもいいから手触りのあるものを通じて話をせずにはいられなくなったんじゃないだろうかと思った。劇中の彼はその後開けたヨックモックを道端に落としてしまって、割れたシガールを食べた。

 

あとからトークショーでのようすの動画を見たところ、この映画はほとんどアドリブがなく撮影されていたという。長回しが多くて掛け合いも多い。友人同士として役を積んでアドリブで作ることが美談にもなりそうなタイプの物語だが、脚本のある、秩序だったプロセスを踏んだ作品であったことに納得した。

強いホモソーシャルが打ち出された作品を見ることは珍しくなった。それでもこの作品の各シーンが愛おしいのは、割れたシガールを見る表情に胸を掴まれたのは、内輪ノリが過ぎるようなものにならないように敷かれた繊細なルールが根底にあるからなのかなとぼんやりと思った。それは友達への思いやりと似ている。

 

劇中の6人がなんらかの権威や、あるいは権威から排除されて集まっている関係性でないところも好きだ。学年にばらつきがあって、好きなことも違って、現在の仕事の種類も違う。人生に向かう気持ちも違う。外の世界で感じる居心地の悪さを知っていて、この6人以外の他の誰かには伝わらない人生の一部を共有している。そこにたまにアツくなりながらヘラヘラごまかす。

スクールカーストという言葉ができて久しい。けれど、実際の教室はその線引きが絶対的ではないはずだ。なぜかそこを飛び越えたり偶然隣り合ったりしながら結んだシーンが特別になったり、説明できない物事が起こることもある。モテてた男子グループと偶然カラオケで会って1曲一緒に歌ったこと、ほとんど話したことのないクラスメイトに卒業式の日急に泣きながら電話するねと言われこと、塾だけでしゃべってた同級生。YESかNOかで答えられる質問や好きか嫌いかで決める価値観、賛成反対を明らかにし続けることでこぼれていくどうでもいい時間が何かを生んでいたことは、不意に思い出され、わたしを励ます。

 

 

ほとんど共通項がない彼女と夜中の3時まで長電話する仲でいるのも、色んなものを決め込まないでいられているからかもしれないと思う。彼女から急に届く歌詞を書き写しただけのメールは、正直半分くらいは意図がわからないが、何か一言返して「好きだよ」とか「ありがとう」とか伝えられれば、お互い別にそれでよかった。実際わたしは彼女のことがかなり好きで、このやりとりを卒業する必要もない。

「あいつ浜崎あゆみ好きだよなあ」って言われるほどの個性は、わたしにはない。それは生きてるときついこともあるけど、それでいい。

大人になったわたしたちには決めなきゃいけないことが多すぎるし、それができなきゃ自分がないと思われてしまう世界とずっと闘っている。彼女が何かに悩んだら、はっきりさせようとすんなよ、とわたしも言ってあげたい。

 

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昼でも夜でもない、日が暮れそうでくれない、暮れなずむ時間を命令形の動詞にしたタイトルは、この曖昧さを愛おしむことへの愛情が見えてやさしい。

 

どこまでも自分の映画と思ってしまい好きで好きでしょうがない『くれなずめ』。上映期間とかヘラヘラ無視して、グダグダと永遠に映画館でかかり続けてくれないかなあ。本当に好きです。